2007-11月27日~12月1日 見学会

川崎市の歴史遺産には二ヶ領用水と円筒分水があります。この遺産が、今400年・70年を迎えようとしています。この貴重な財産を次世代に繫げていく思いで実行委員会を立ち上げてこれから3年の期間内に各種のPR事業を展開していく計画があります、今回はその一環として円筒分水補修も兼ねて、円筒分水見学を行なった。
二ヶ領用水と円筒分水とは~なんですか?
 慶長2(1597)年、徳川家康から多摩川の冶水と流域新田開発の命を受けた、当時の代官小泉次太夫は、稲毛領と川崎領に二ヶ領用水の建設に着手し14年の歳月をかけて慶長16(1611)年に完成させ、米の収穫が飛躍的に伸びた。

 その後、百年余り経過した頃には、用水もいたるところで欠損し、かなり荒廃したので、享保9(1724)年川﨑宿の名主・問屋および本陣役の「田中休愚」は、幕府の命を受けて、死瀕していた、二ヶ用水の大さらいと4本の分離樋(久地堀、六ヶ村堀、根方堀。川﨑堀)を現在の溝の口ガーデンアクアスマンション前辺りに、建設を含む大改修を行なって、二ヶ領用水を再び甦らせた。
 しかし川の自然流速は、中央は流れが速く、川岸は遅くの現象は何時も正確の配分が出来ず、それぞれの水量配分をめぐり、「溝口水騒動」などの水争いが絶えませんでした。

 そこで、昭和16年(1941)用水の何時でも正確な分水管理の出来る分水装置として、サイホン式円筒分水の方式を採用し、平瀬川の下を潜り、再び吹き上がってきた水を円筒の円周比により、四っの堀(久地堀、六ヶ村堀、根方堀、川﨑堀)に分水し、各堀へ用水を提供できるように造られたのが今の『二ヶ領用水久地円筒分水』です。
 円筒分水の技術は、当時としては最も理想的かつ正確な自然分水方式の一つだったので、近年に至るまで、各地で作られています。戦後、視察に訪れたGHQの技師により、アメリカにも紹介されました。
 また、平成10年には、川崎市で初めて国の登録有形文化財(建築物)に登録されました。
 

 構造は下図に示すごとく。2本のコンクリート管(内径1500mm)で平瀬川の下を潜って来た水は、直径8mのコンクリート製の円筒から吹き上がり、その外のある直径16mの円筒の円周を、それぞれの灌漑面積に合わせた比率(久地堀:1.675m:根方堀:7.415m六ヶ村堀:2.702m・川崎堀:38・471m)で水量を分ける農業用水の施設です。

二ヶ領用水堰を開いて円筒分水の水を絶っている
水を抜いた円筒分水筒を覗いている見学者
径8m円筒の底,右側下に径1.5mの用水管が見えます
径16mの円周配分溝です
こども達も真剣に聞いている

一番多く見学したのは、小学3~5年生です
多くの若者やお年寄りが川﨑の歴史遺産”二ヶ領用水円筒分水”を見学され、この地の歴史の重みを
感じとったことは意義深い・・・これから3年間更なるイベント行事で二ヶ領用水と久地円筒分水を盛り上げ
当時を偲びたいものです。                            リポート  眞田
その場所は・・・・ここです