上菅の渡し(矢野口の渡し)
この渡しは古くは、「矢野口の渡し」といわれたものである。
いわゆる「江戸道」の渡しであった。
 この渡しは古くは、「矢野口の渡し」といわれたものである。従って、「矢野口の渡し(上菅の渡し)」と表示すべきかもしれない。
 「相模の淵野辺から真光寺台を抜けて黒川を通り、稲城の砂浜から矢野口の塚戸で八王子道と交差し、中島を経て多摩川を渡り、下石原から調布の甲州街道に出て、江戸へ通じていた」いわゆる「江戸道」の渡しであった。
この時の渡し場道は、旧稲城市矢野口400番地と川崎市菅6丁目10番地の間の道、すなわち旧矢野口村と菅村の境にあった。
 『新編武蔵風土記稿』に記載されていたのは、この「矢野口の渡し」で、菅村の項に「村の西なる矢野口村と両村の持ちにて渡船あり、これも年々十月より翌年の三月は仮に橋を架して往還に便ず」とある。黒川の炭、相模川の鮎は、この道を通って江戸に運ばれた。
『皇国菅村地誌略』(上原家文書)には「延宝元年(1673)本村及矢ノ口両村ニテ之ヲ開設ス」とある。
明治時代になると、多摩川の流路が変わったため、渡し場は下流の上菅の、現在「多渡さま」とよばれる水神祠があるところに移動した。これで「上菅の渡し」と呼ばれるようになった。
河原には、現「多摩川稲田堤桜之碑」がある辺りから下りたようだ。
これを地図で見ると
1)明治10年(1877)測量「上布田」の二万分の一の地図では、左岸の矢之口渡道は江戸道と呼ばれる道であるが、渡河点は不明。別に「新渡道」がある。
2)明治13年(1880)測量「布田駅」の二万分の一の地図で「矢埜口渡船場」とあるのは、上記の明治10年(1877)の地図の「新渡道」に連なる所。
3)明治14年(1881)の「武蔵国橘樹郡高石村」の二万分の一の地図では、上菅の多渡さまの付近に「矢野口の渡し」とある。
4)明治39年(1906)「下布田」の二万分の一の地図で、「矢野口渡」とあるのは、現在の「多摩川稲田堤桜之碑」のやや下流。
5)また大正6年(1917)測量「溝口」の二万五千分の一の地図では、「矢野口渡」は現稲城市と川崎市の境にある。
 参考文献の記述とは矛盾があり、一部地図のほうに間違いがあると判断せざるを得ない。
 かつて菅村の人びとの野菜や麦などの畑作物は、対岸の調布地区の畑まで耕作に行かねばならなかった。
 この渡しは、そのための「作場渡し」でもあった。また調布の町へ生活用品を買いに行く人の足でもあり、この渡しを使って菅の農民は東京の四谷、牛込あたりまで下肥を汲みに行った。
 「上菅の渡し」は矢野口、上菅と下石原の三村で運営されたが、渡船の上げ金の分配問題から矢野口が脱落し、別途、大正7年(1918)上流に上石原と組んで渡船場を開設した。
「矢野口の渡し」とも「石原の渡し」とも呼ばれた。いわば第二次矢野口の渡しというところか。
「上菅の渡し」はそのままの場所で、上菅、下石原の共同で運営された。
 大正4年(1915)、上菅の篤志家小山清次郎氏が、自費で府中県道より多摩川堤防(野戸呂)に通じる新道を造り、菅に寄付した。
上菅の渡しは、この新道先の河原から出る時もあった。場所は水神祠より300メートル位下流。川の水が多い時は水神祠の所、少ない時は新道を出た所から舟が出た。
 渡し船は馬船と伝馬船があり、上菅と下石原から一人ずつ出て常時2人で運航した。渡船使用期間は、原則として毎年6月1日より11月30日まで、その他の期間は仮橋による。両村の人は渡船料を穀物で納めた。
 この渡しは、昭和10年(1935)多摩川原橋が開通したことにより廃止された。
翌年下流の「下菅の渡し」と合併する形で、その中間に「菅の渡し」が誕生する。
この上菅の渡しの廃止年に関し、参考文献では、
1)昭和10年(1935)と明記するもの。
2)昭和11年(1936)に上、下とが統合することになり、菅の渡しとして新たに開設されたとするもの。
3)昭和11年(1936)まであったとするもの。
 とまちまちであるが、現存する菅と下石原の契約書に、契約期間を〜昭和10年(1935)11月30日としてあり、多摩川原橋が出来たのにこれを更新したとは考えにくい。
また、例年では12月1日からは渡船でなく、仮橋を架ける時期である。
また、『稲城市史』によると、上流の石原の渡し(矢野口の渡し)は昭和10年(1935)12月1日に解散式を行っている、などから考えるに、昭和10年(1935)11月30日をもって渡しはいったん廃止され、翌年例年なら船を出す時点で、やはり下菅などは橋までの距離があり不便なので、ここに上菅、下菅の両渡しを統合する形で、その中間に「菅の渡し」を開設したと考えるのが妥当だろう

昭和10年(1935)、多摩川原橋が開通したことにより廃止された。