丸子の渡し

中原街道の渡し場。
江戸期の中原往還で現在の中原街道の渡し場であった。

 丸子の渡しの歴史は古代まで遡る。古くは、「まりこのわたし」ともいい、「府中市史」は次のように述べている。承和2年(835)の太政官府(「類聚三代格」)には、武蔵国石瀬川の渡船を2艘増加したとある。
東海道の武蔵国で、3艘の渡船を必要とする河川は、後の六郷川つまり多摩川以外にはない。
1艘2人の渡し守として3艘で6人、交替して12人は最小限の守子の人数である。
不時の備えとして20余人常備の守子が必要であるから、家族の子持ちが増加して、ここの渡し守子の部落が成立する。
丸子の部落は守子の部落から発生したものと思われる。
そしてまりこ(丸子)はもりこ(守子)の訛ったものではないかと考えられる。
又、一説には多摩川の流れがこの付近で丸く蛇行していたことから「丸子」と名付けられたともいう。
 平安時代の延喜式に拠れば、武蔵国の東海道は店屋(町田市鶴間町谷)〜小高(川崎市高津区末長)〜大井(品川区大井)〜豊嶋(千代田区豊嶋町付近)といったルートをたどり、丸子付近で多摩川を渡っていたと考えられる。
 鎌倉時代の「吾妻鏡」には武蔵国丸子荘とあり、中世には丸子保と云ったこともあったという。
文明18年(1486)東国を旅した道興准后は、「東路のまりこの里に行きかかりあしもやすめずいそぐ暮れかな」とその著、『廻国雑記』の中で詠んでいる。
おそらく鎌倉・室町時代の古東海道も丸子の渡しを利用してと考えてよかろう。
 『関八州古戦録』・永禄12年(1569)等で見る限り、江戸期以前(16世紀)の渡船場についての利用資料は詳らかではない。
天正18年(1590)徳川家康入府の折も、市場村〜小向〜江戸の道を辿ったとされる。
従って、丸子の渡し成立は、慶長年間(1596から1600)とするのが妥当であろう。
 中原街道は、現平塚市中原に中原御殿が造られ、江戸との往来にこの道を用いたことで名づけられ、江戸時代初期には参勤交代の道路として多用された。
当時は天下の公道とされ、丸子の渡しは江戸への玄関口としての重要な役割を果たした。
 ところが、東海道五十三次(川崎宿)が整備されると、中原街道は次第にその脇街道となつてしまったが、東海道よりは江戸への近道であったため、急ぎの旅人や商品の輸送などに重宝がられた。
 丸子の渡しは、慶長の頃、二子の大貫市郎兵衛(丸子提灯屋の祖先)が御用賜りで創始したものである。
当時馬乗りは川を越え、徒歩者のみ舟に乗った。
渇水期の10月から3月までは舟を停め、長さ46間巾7間の土橋を架けたという。
この土橋は寛政6年(1794)から明治13年(1880)まで存在したが、再び渡船が復活した。
 慶長3年(1598)春から始まった小泉次太夫が率いる二ヶ領用水大事業の陣屋や同13年(1608)小杉御殿の造営等、この頃から街道の整備と共に渡しの制度も整ってきたと推測される。
 さて渡船の権利についてだが、東京側沼部村と川崎側上丸子村農民3人の所有だった権利を、二子村の大貫市郎兵衛へ55両で譲渡したところで、下沼部村と市郎兵衛が渡船の権利を得るに至った。
ところが、宝暦10年(1760)ころ、上丸子村は市郎兵衛使用物件(渡船小屋と仮橋をつくる材料置き場)の年貢を自分たちが納めているのに、渡しの利益を独占するのは不当だとして代官所に訴え、市郎兵衛は渡船権の半分を譲ることになった。
 以後、渡船権は三様となり、大正15年(1926)の道路法改正まで下沼部村、上丸子村、大貫重太郎(市郎兵衛の子孫)の三者が利益を分配しあってきた。
 明治大正期になると川崎側の村むらは、東京の近郊農村の色彩を強め、中原街道は東京への農産物の積出ルートとなると共に、東京側からは肥料の搬入路となった。
そのため渡し場には、朝早く東京の市中(愛宕あたり)へ「しもごえ」を汲みに行く肥やし車の列ができたほどで、こやし街道とも呼ばれた。
大正の終わりごろで渡し賃は1人2銭・荷車5銭という。
なお、当時渡し賃は多摩川の砂利掘りとともに村の重要な収入源となっていた。
 大正から昭和となり、中原街道沿いの町村が発展するのに伴い、人はもちろん牛馬車や自動車の往来が盛んになってきた。
渡し舟も今のフェリー式の大型船となり、人と車を一緒に乗せて運ぶようになった。
しかし、その混雑と不便は大変なもので、大風が吹いたり大水が出れば、危険防止のため欠航するのは昔も変わらなかった。
 何とか渡しに変わる安全な橋を造ってほしいという請願運動は、主として川崎側の人びとによって明治17年(1884)から何度も繰り返し行われた。その結果、東京府と神奈川県が工費を折半負担して丸子橋を架けることになり、昭和7年(1932)に起工され、昭和10年(1935)5月に開通した。第1回出願からなんと43年後のことであって、架橋運動を熱心に推進した川崎市中原町長の安藤安は、その著『待望丸子橋』の中で、喜びと感激を痛いほど熱っぽく綴っている。
 丸子橋は、長さ398メートル、巾11メートルで、大正14年(1925)完成の六郷橋と同じ形式のタイドアーチ橋であった。
丸子橋が出来ると、丸子の渡しは不要となった。
その頃、昭和6年(1931)東横線の鉄橋(1925 完成)に渡月橋という巾1メートル程の側橋が付けられ、丸子の渡賃3銭より安く2銭で渡していた。側橋も丸子橋開通で廃止された。
 徳川氏の江戸入府後、相模国中原街道に通じる相模街道を慶長9年(1604)整備して中原街道と呼ぶようになった。
その頃より大貫市郎兵衛が渡船業を始め、脇街道渡し場の通りとして松原通りと丸子通りが村の中心となった。大正元年(1912)東京との境界が決まると、改めて東京府から野村次郎左衛門、大貫重太郎、山本要次郎の三氏に渡船許可証が交付された。
 以来丸子橋開通の頃まで、砂利掘りと合わせて村の収入源の大半を占めていた。このように暮らしを支えた多摩川であるが、度重なる洪水による被害が大きく、その度ごとに土地争いや助郷の加増などがあったようで、安政大地震の記録にも残されている。
 幕末には、万延元年(1860)横浜居留外人保護のため上丸子渡船場見張り所ができた。ほかに、ハリス一行の通行、長州征伐の助郷、明治元年(1868)薩摩藩兵の渡船橋警護など、渡し場ゆえのあわただしさに見舞われた。
 戦後(1945年以降)の高度成長期にかけて、多摩川は公害の象徴ともいう洗剤の白い泡が風に舞い、調布取水堰(丸子の堰)は悪名高い天下の名所となってしまった。
それでもボート遊びに興じ、釣りを楽しむ人は結構多く、両岸にある河川敷公園や野球・ゴルフのスポーツグランド・堤防上のサイクリングコースを利用する人などでシーズン中の日曜・祝日は結構な賑わいをみせた。
 この辺りの川幅80メートル、今様丸子の渡しが昭和28年(1953)から始まった。歩いて渡るよりも手っ取り早く対岸に行けるし、川風に吹かれてつかの間の詩情を味わえるとあって、利用客が川渡りを楽しんだ。多い日には300人からの乗客があったという。渡船賃は大人100円、小人50円だった。
 近年に至り、環境改善の高まりにより、かって汚染源が除かれ、渡し場あたりの風景も落ち着きを取り戻しつつある。「清流蘇る丸子」「遡上始まる鮎の群れ」「タマチャンの出現」など、メディアに登場する情報は、丸子の渡し場辺り風景をアピールするものとなった。
この頃、70年経った旧丸子橋が架け替えられて2代目丸子橋が完成した。長さ406メートル、巾25メートルで歩行者にはたっぷりとゆとりを持たせてある。
 丸子の渡しが無くなってから70年余りの今年初め、丸子橋近くに住む榎本さん(昭和6年生まれ)から、もと渡し守だった頃の思い出を語ってもらうことが出来た。
木製渡し舟1艘のほか、樹脂製の貸しボートを保有している。数人の客を乗せ河口近くの大師橋辺りまでの船旅ガイドが出来るそうだ。
丸子の渡し復活と丸子橋に関わる案内板の設置を、強く要望されていた。
昭和10年(1935)に、丸子橋が開通したため廃止となった。