宮内の渡し
大正の初め宮内と世田谷の等々力を結ぶために渡しをつくったといわれる。
 「川崎市史」に拠ると、大正の初め宮内と世田谷の等々力を結ぶために渡しをつくったといわれる。
大正6年(1917)1口10円の出資金を宮内の人が出し合って、渡し場までの道を整備し、荷車2台ほどの舟を買って渡しを維持したとされている。
宮内以外の人は有料として、多摩川沿いの村びとたちが、東京の市場へ野菜などを出荷するのに使われた。
その後、大正14年(1925)に二子橋が出来て利用者が半減したが、昭和10年(1935)に丸子橋開通まで続いた。
 現在、世田谷区玉堤2丁目のクラブハウスと川崎側にあるコースを結ぶゴルファー専用の「ゴルフ渡し」が、宮内の渡しがあった地点とほぼ同じところで運行されており、そぞろ時代の移り変わりが偲ばれる。
 明治の頃、中原村の中に東京府(現、等々力緑地)があり、多摩川の向こう側には中原村の飛地があった。
明治45年(1912)の府県境界変更で、今日のような地図になったのである。
現在の飛地は、当時松が数本あるだけで、見渡す限りの畑地であり、ほとんどが世田谷の等々力村所有地であったために、渡し舟で耕作に通って来ていた。
 大正の頃、生活の中心が農業にあった宮内の人びとにとって、渡しは農作物を売りに行くための生活ルートであった。
換金作物として、ゴボウ等の野菜類から柿や桃の果実など神田市場で評判が良く、渡しを使って数多く出荷された。
又、大正12年(1923)の関東大震災の時は避難用となり、戦後の食糧難時代には買い出しに利用されたといわれている。