下野毛の渡し
下野毛村(東京側)の人が飛地(川崎側)に畑を持ち、耕作していたので、渡しが必要であった。
 現在の川崎市高津区下野毛は、江戸時代以前は荏原郡下野毛村であった。
慶安4年(1651)頃、蛇行していたために時々洪水を起こしていた多摩川を人為的に堀り替え、流れを真直ぐにした。その結果、下野毛村が分断され、川を挟んで飛地となってしまった。
 下野毛村(東京側)の人が飛地(川崎側)に畑を持ち、耕作していたので、渡しが必要であったと考えられる。
川の付け替え以前から渡しがあったことを示す資料があり、川の水が雨で増水すると二子の渡しがすぐに川止めになったのに対して、この付近は川幅が狭く、水量が増えても使用できたということ、又、神奈川側の向丘、生田の農家の人たちが、往きは車に野菜を積んで行き、帰りは下肥を汲んで戻るという使い方をしていたこと、などから、川に付け替え以前から神奈川と東京を結ぶ交通手段として渡しが存在していたことが推察できる。
 何時頃からここに渡しがあったかということは定かではない。
無人だった飛地も畑が荒らされるということで、人が移り住むようになり、『新編武蔵風土記稿』によれば、この頃、13軒が飛地側に住んでいた。
この人たちは本村(東京側)にある善養寺の檀家であったことから、墓参りや親戚付合い、後には小学生の通学などにもこの渡しが使われ、ますます重要になってきた。
 この下野毛の渡しは、川崎側の河川敷にゴルフ場が出来た昭和30年(1955)頃まで使われていた。
ゴルフ場の事務所が東京側に設けられていたことから、ゴルフ客のために、渡しが使われ、昭和40年(1965)頃までは近所の人も便乗出来ていたらしい。
このゴルフ場の渡しは、今でも使われている。
 左岸は丸子川(旧六郷用水)が最も多摩川に近づいたあたり、現玉川清掃事務所の少し上流あたりに渡し場があり、右岸は堤防工事、附近の開発で工場が並んでいるので確かなことは分からないが、川を渡ってから河原をかなり歩き、少し上流へ曲がったところ(高津区下野毛1丁目8番地)で堤防に上がったようだ。
 明治末頃までは1ヶ月交替で、本村と飛地で運営されていたが、明治45年(1912)の府県境界線変更後は川崎側の27軒が1日交替で、船を出していた。地元の人たちは無料、一般の人からは2銭、3銭の渡し賃を取った。
昭和30年(1955)頃に廃止された。