古地図

二ヶ領用水はなぜ造られた?
そもそも二ヶ領用水は1590(天正18)年に多摩川が大洪水を起こして流路を変えたことから、新たに農業用水を引き、水田を開発するために造られました。この用水を用いて栽培された米は3代将軍家光が鷹狩りに来たときに賞味し、以来将軍家の御飯料になりました。のちに稲毛米と呼ばれ、江戸ですし飯として大人気だったそうです。

二ヶ領の「二」の意味は?
川崎領と稲毛領の「二」つの「領」にまたがって流れたことに由来します。二ヶ領用水と対岸の世田谷領・六郷領を流れる六郷用水を合わせて「四ヶ領用水」と総称することがあります。両用水は同じ小泉次大夫の指揮のもとに、ほぼ3か月交代で交互に工事が進められました。そのため「双子の用水」と呼ばれたりします。

変わる用水の用途
水田を灌漑し、農民たちの生命の水として使われてきた二ヶ領用水ですが、時代とともにその用途は変化してきました。近年に入ってからは、農業用水だけでなく、工業用水にも用いられました。さらに現在では、都市生活に潤いを与える環境用水として、その位置づけは大きく変わりました。

二ヶ領用水はどこからどこまで?
二ヶ領用水は多摩川に2カ所の堰を設けて取水しました。ひとつは上河原堰、もうひとつは宿河原堰です。この二つの堰で取り入れた用水路は、JR南武線久地駅近くで合流し、今の川崎市域のほぼ全域に枝分かれして流れました。
幹線水路の全長は約32kmといわれましたが、現在は多摩川大橋に近い平間浄水場の横までしか残っていません。

二ヶ領用水はいつできた?
関ヶ原の戦いがあった3年前1597年に測量が始められ、その2年後に開削工事にとりかかりました。完成したのは測量 開始から14年後の1611(慶長16)年です。
現在のJR南武線沿線の地域は、この用水によって農村地帯として発展しました。

二ヶ領用水を造ったのはだれ?
二ヶ領用水上河原線にかかる台和橋のレリーフや世田谷区の次太夫堀公園に、その名を残しているのが小泉次太夫という人です。徳川家康の家臣で、用水開発を家康に進言して、四ヶ領用水開削の用水奉行に任命されました。この次太夫の指揮の下に、地域の人たちが協力して用水が造られたのです。

二ヶ領用水はどのようにして造られた?
今のように機械など全くない江戸時代です。用水堀りは、ひたすら人の力で行われました。クワやスキで土を掘り、モッコに入れて運び、土手などを造りました。このように実際に用水路をを掘っていったのは、地域の農民たちでした。二ヶ領用水は、農民の仕事の合間に、こうした作業を10数年も続けた農民たちの労苦のたまものといえます。

二ヶ領用水の保存運動
春には水辺の桜並木がたいへん美しい二ヶ領用水ですが、少し前までは工場廃液や生活排水の流入で汚れきっていました。何とか、この用水堀に新しい存在価値を見いだして、後世に残していきたい。そのような市民の願いを実現するために、「二ヶ領用水の再生を考える市民の会」や「二ヶ領用水・中原桃の会」などが誕生しました。そして、市民が自ら考え、行動し、提案していく、行政との新しい提携が実を結んで、快適な水辺の環境やすてきな散策路が整備されました。今二ヶ領用水は、多摩川エコミュージアムプランの中に位 置づけられて、その歴史的役割を復権する手だてが模索されています。


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