みんなで歩こう二ヶ領用水 @
川崎堀=小杉から鹿島田へ
日 時 |
2009年9月26日 13:00〜16:30 |
天 気 |
晴れ |
探索エリア |
小杉駅前〜鹿島田駅 |
参加者人数 |
76名 |
≪コース≫ |
小杉駅前 → 中原区役所前 → 渋川の分岐点 → 東住吉小下の親水公園 → |
中原平和公園 → 旧苅宿堀の取入口 → 昭和橋 → 横須賀線の跨線橋 → |
大鹿橋 → 水鳥と鯉のフェンス → 鹿島田橋 → 町田堀と大師堀との分岐点 → |
日本初の工業用水道説明板 → 市水道局平間配水所 → 大師堀の復元水路 → |
町田堀跡の遊歩道 → 鹿島田駅 |
≪調査内容≫
今回の散策は、川崎堀の下流を小杉界隅から鹿島田の分岐点まで歩いた。
農業用水としての役割を終え、現在は環境用水として保存され、各所で親水護岸がみられた。
途中、散策コースとして最良の場所があり、水と緑のまちづくりがすすめられていることを感じられた。
<写真1>小杉駅前
天候に恵まれ76名の参加があった。
小杉駅前広場の歩道橋の下に、「八百八橋碑」がある。
碑の前に石橋の石板が敷かれていた。
注意して見ないと見過ごしてしまう。
<写真2>中原区役所前(「平和の絆」)
中原区役所の中庭に彫刻家・円鍔勝三翁のブロンズ像「平和の絆」が設置されている。
円鍔勝三翁の像は川崎市内に10数ヶ所設置されていて、川崎大師などにある。
作品のほとんどを川崎市中原区で制作した。
<写真3>八百八橋遺構と碑
小杉駅前にある八百八橋と同じ石板が3本保存されている。
横に施主野村文左衛門と銘がある。野村文左衛門は、肥料(干鰯)の商をし、巨富を得ていた。
その商いで得たお金で分水路に50余りの石橋を架け、社会貢献した。
世間では、その社会貢献に対し八百八橋と称えた。
中原区の観光協会が建てた八百八橋の由来を記述した石碑がある。
<写真4>渋川(右)の分岐点
久地円筒分水から四筋に分かれ、この中で最大の分水路が川崎堀である。
この川崎堀は、高津区・中原区・幸区・川崎区の平地を潅漑していた。
渋川の分岐点にあるのが「落とし堀」又は「悪水堀」と言って、
不要な水(雨水や田んぼで余った水など)を矢上川へ落としていた。
<写真5>渋川
昭和26年に新しくできた水路で、少し下った辰巳橋の所に戦後まで流れの落差を利用して水車があった。
<写真6>中丸子堰付近
七堰の一つで、中丸子堰がこの辺りにあった。
川幅が9mあり、堰は蛇籠(竹の籠を編んで石を入れたもの)を使っていた。
中丸子用水の幅は2.6mあった。
<写真7>仲よし橋
仲よし橋の辺りに、上平間堰があった。
上平間堰は、上平間に水が流れて行くという意味でついた。
川幅は11mあり、杭を打って堰にしていた。
乱杭堰又は草堰といって、刈りとった草を詰め込んでいた。
<写真8>川崎市平和館前
川崎市平和館玄関前に円鍔勝三翁のブロンズ像「和」が建っている。
少女をモデルに制作した作品である。
平和館には、戦争時の資料などが展示してある。
<写真9>中原平和公園
平和公園一帯は昔、米軍基地「米軍印刷局」があった。謀略のチラシを作ったと言われている。
市民の返還運動が実って返還され、川崎市が用地を平和公園と県立住吉高校に充てた。
平和公園内には、円鍔勝三翁の息子・円鍔元規が制作したブロンズ像「はばたけ」が建っている。
元規氏の作品は、川崎市内の小学校に数ヶ所置かれている。
<写真10>蛇行する旧水路跡
蛇行している旧水路が道路として残されている。散策路としてたどることができる。
<写真11>平和館脇を流れる二ヶ領用水
平和公園ができる過程で二ヶ領用水川崎堀もキレイに整備され、直線化されている。
この川縁に沿って広い公園がいろいろな形で配備されている。
周辺は樹木が多く茂っていて、癒しの散策コースとして最良の場所となっている。
<写真12>岸辺に残る取水口跡
分水路に入る取水口と水門が残されている。
七堰の一つ苅宿堰ではないかと推測したが、苅宿堰があった住所は今と昔で変わっていて、
ここよりもう少し上流にあるのではないかと思われる。
ここは、鹿島田堰ではないか。
<写真13>横須賀線の真下を通る水路
川崎堀はJR横須賀線に突き当たると、暗渠となり線路の真下を通っている。
また、堀の横の歩道もなくなり、迂回して横須賀線の跨線橋を渡らなくてはならない。
この横須賀線が走っている所は昔、品鶴(ひんかく)線と呼ばれている貨物線が走っていた。
二ヶ領用水を跨線橋から眺めることができる。
<写真14>跨線橋から下る階段と水路
横須賀線下を潜って流れ出る二ヶ領用水が見られる。
この辺りに来ると、幹線水路も親水護岸から離れてしまい、コンクリートで整備しただけの川になってしまう。
<写真15>桜並木が続く水路
桜並木がしばらく続いている二ヶ領用水。フェンスには鳥(カモ)や魚(アユ)がデザインされている。
<写真16>町田堀と大師堀の分岐点
右が町田堀、左が大師堀。
円筒分水から分水して流れ下ってきた川崎堀はここで消える。
昭和初期くらいから農地が減り、住宅化が進み、その結果水が不要となり、余った水を平間浄水場に流し工業用水として用いられた。
(「わが国最初の工業用水」の表示板が立っている)
<写真17>市水道局平間配水所
工業用水を作る為の平間浄水場があった。
臨海地帯で工業用水の需要が減ったことから、浄水の用途が減り、名称も平間配水所と変わっていった。
現在は、使用されていない。
<写真18>町田堀の由来を伝える碑
町田堀について解説した碑が置かれている。町田堀だけではなく二ヶ領用水全体の説明もされている。
<写真19>町田堀跡
かつての町田堀は、矢向や尻手、市場などを潤し、潮田や小田、渡田一帯の水田を潤していた。
町田堀は、長い間水が流れずに堀跡のみが見えた状態で続いていたが、最近この堀跡をそのまま残し、遊歩道として復活した。
水の流れをイメージしたカーブラインが引かれている。
<写真20>大師堀の復元水路
大師堀は、幸区や大師河原一帯の水田を潤していた。
大師堀に入った水は、ほとんど暗渠で地上の水路も姿を消したが、ミニ水路を復元し、遊歩道となっている。
この水路は、下平間小学校のグラウンドに入り、終わりとなる。