みんなで歩こう二ヶ領用水 B
上河原堰から本川を歩き小泉橋へ
日時 : 2009年11月 8日 13:00〜16:00
天気 : 晴れ
探索エリア : 上河原堰から小泉橋、五ヶ村堀緑地
参加者数 : 65名
≪コース≫
筏道 → 中野島の渡し跡 → 新三沢川 → 上河原堰堤 → 上河原取水口 →
稲田取水所 → 二ヶ領用水と新三沢川の立体交差 → 草堰 → 中野島橋 →
沖川原橋(旧三沢川の流入) → 一本杁堰 → 紺屋前堰跡とその碑 → 台和橋 →
新川橋 → 小泉橋 → 榎戸堰跡 → 榎戸の庚申塔 → 五ヶ村堀の取水口 →
五反田川と合流点 → 五ヶ村堀緑地
≪調査内容≫
今回の散策は、上河原堰から小泉橋、五ヶ村堀緑地まで二ヶ領用水本川沿いを歩いた。
護岸が整備され、遊歩道があり、四季折々に違ったおもむきを感じられ、歴史の重さを感じられる最良の散策コースであった。
<写真1>筏道
筏道の面影が残っている。
筏道とは、江戸中期頃から昭和初期にかけて筏師が奥多摩の木材をいかだに組んで、
それを操作し多摩川の河口まで運び、仕事を終えた筏師が奥多摩へ歩いて帰るのにおのずと出来た道のことをいう。
現在筏道は、ほとんど一般道と一緒に分からないが、この辺りは少し面影が残っていて、人が1人2人通れるくらいの細い道がある。
<写真2>中野島の渡し跡
中野島の渡しは対岸の調布と結ぶ為、明治18年から昭和10年中頃くらいまであった。.
調布の布田天神や東京へ野菜や柿などを出荷するために利用されていた。
当時、渡し場へ出るのに二つの渡し場道があり、一つは駅前の広い道で「上の渡し場道」、
もう一つは駅から登戸寄りにある中野島中央道りで「下の渡し場道」である。
渡し場は、川の流れの状況によりこの二つの渡し場道の間から出ていた。
来年の3月くらいに「中野島の渡し」の碑が建つ予定。
<写真3>新三沢川
昔の三沢川は、麻生区の黒川の谷戸から水が集まって、その流れが稲城市と通り、菅から川崎に入り、二ヶ領用水に流れ込んでいた。
この川は、「暴れ川」で頻繁に洪水を起こしていた為、昭和18年〜20年にかけて山の裾から一直線に多摩川に流れ込むよう改修工事が行われた。
この改修工事に取り組んだのが平賀栄治である。
<写真4>上河原堰堤
二ヶ領用水が完成した当時は自然流入だったが、後に竹籠に砂利を入れた「蛇籠」を約450個積み上げて堰にしていた。
その後、昭和16年〜20年にかけて近代的な堰を平賀栄治が作った。
堰付近には、冬になると水鳥がたくさん見られる。
<写真5>上河原取水口
二ヶ領用水はここから全長32qで、稲毛・川崎の60ヶ村を潤していた。
<写真6>稲田水源地(右側)
稲田水源地は、昭和13年〜51年まで運転していたが今は使われていない。
ここでは多摩川に流れている伏流水を汲み上げ生田浄水場に送っていた。
ここから先の土手は昭和43年まで桜の名所だった。
<写真7>二ヶ領用水と新三沢川の立体交差点
二ヶ領用水と新三沢川が立体交差している。
以前は新三沢川が二ヶ領用水の下をくぐって通過していたが、現在は二ヶ領用水が新三沢川の下をくぐっている。
これは、円筒分水と同じサイフォンの原理によって新三沢川の下をくぐり、用水を湧き上げている。
サイフォンの原理で二ヶ領用水の水が湧き上っていることが確認できた。
<写真8>ふだっこ橋
立体交差を過ぎると「ふだっこ橋」という小さな橋がある。この辺りの地名は布田と言う。
かつて、この橋を渡ると筏道に通じていた。
<写真9>布田堰(草堰)
江戸時代からあり、現在も使われている。布田堰で取水された流れは新田堀になる。
堰には2種類あり、杭を打って草などで粗く築いた「草堰(乱杭堰)」と石積みやコンクリートで固定し築いた「洗堰(蛇籠堰)」がる。
草堰は堰の隙間をぬって用水が流れ、洗堰は堰の上を余分な用水が流れる。
<写真10>中野島堰(草堰)
中野島堰で取水された流れは川原堀である。
この堰からの水は、中野島北部の新田に利用されていた。
中野島南部の本田には大丸用水が利用されていた。
<写真11>大丸用水
大丸用水は多摩川(稲城市大丸)から取り入れられ、大丸から登戸までの各村々を潤す灌漑用水だった。
中野島橋付近に昭和初期くらいまで流れており、二ヶ領用水を越えるのに懸樋を使い流していた。
<写真12>橋本橋
道標
橋本橋は平成21年に新しくなった。昭和3年にできた道標が建てられている。
この橋から円筒分水の手前までが一級河川(二ヶ領本川)になる。
また、この橋までが重要河川である。
<写真13>一本圦堰
登戸にある3つの堰の一つ。
昔は草堰だったが、昭和25年頃にコンクリート堰になり、現在は管が2本埋めてあり、そこからポンプアップし取水している。
現在も活用されている。
「一本圦堰」と言う名は、取水口の扉が一枚の板だったことから付いた。
<写真14>角田益信氏による田植え唄披露
特別ゲストとして角田益信氏お迎えし、多摩川弁による登戸の田植え唄を披露していただいた。
田植え唄は、田植えをしながら歌った歌である。
田植えの作業中は歌ってもよいが、それ以外で歌うのは良くないと言われていた。
大正8年の大干ばつ以来歌われなくなった。
<写真15>紺屋前堰跡とその碑
紺屋前堰の碑
登戸にある3つの堰の一つ。
昭和38年に堰を取り払った。
登戸周辺一帯を潤していた取水口であった。
<写真16>台和橋
台和橋には小泉次大夫のレリーフが作られている。
この橋の脇に山下川が流れ込んでいる。
<写真17>小泉橋
昔は榎戸橋と呼ばれていた。1844年に小泉利左衛門が木橋を石橋に架け替えた。利左衛門は登戸に33の石橋をつくったと言われている。
この橋は、江戸の終りから明治にかけて改修され、平成3年に古い橋がすべてなくなり新しい橋になった。
<写真18>榎戸堰
登戸にある3つの堰の一つ。
小泉橋のすぐ下流に榎戸堰があった。
この堰から3つの堀に分かれ、五ヵ村堀(登戸、宿河原、堰、長尾、久地)・中田堀(現在の向ヶ丘遊園駅東側地域)・上菅生に流れる堀である。
コンクリートの堰になる前は、蛇籠堰で高さが2mあった。その為アユが遡上できなかったようだ。取入口が3つあったので、三本圦と言われていた。
<写真19>榎戸の庚申塔
富士山を信仰している丸山講が明治3年に建てた。
下の石段に彫られている山は、丸山講の講紋である。
丸山講を背景として伊藤六郎兵衛が明治6年に丸山教を開教した。
<写真20>現在の五ヶ村堀取水口
右側の網の所が取水口になっている。溜まった用水をポンプアップし、五ヶ村堀へ汲み出している。
<写真21>現在の五ヶ村堀
現在の五ヶ村堀の流れ。
五ヶ村堀は、登戸から宿河原八幡宮の脇、稲田小学校の前を経由し、川崎緑化センターに流れている。
<写真22>二ヶ領用水と五反田川の合流点
右が二ヶ領本川、左が五反田川。ほぼ同量の流れがある。
五反田川は二ヶ領用水より古く、二ヶ領用水ができる前は登戸、宿河原、久地を流れていた。
<写真23>五ヶ村堀緑地
かつてあった向ヶ丘遊園へのモノレール線沿いに残された五ヶ村堀緑地。
二ヶ領用水の脇にある。
五ヶ村堀はこの下の暗渠を流れている。