みんなで歩こう二ヶ領用水 C

旧井田堀と旧木月堀を探る

 

日時 : 2009年12月13日 13:00〜15:30

天気 : 曇り

探索エリア : 中原区内の二ヶ領用水

参加者数 : 54名

 

≪コース≫

第三京浜道路側道横 → 旧流路と新流路 → 関神社 → 井田堀取入れ口 → 

井田堀を歩く → 木月堀取入れ口 → 木月堀井田堀を歩く → 家内橋 → 

常楽寺 → 春日神社 → 白田橋 → 神地橋(耕地橋) → 小杉十字路 → 

今井堀取入れ口 → 今井神社 → 山王橋 → 渋川分岐点

 

 

≪調査内容≫

今回の散策は、第2回散策こみち終了地点(北見方)から第1回散策こみち出発地点(渋川分岐点)を散策するコースだった。

中原区内の現在の二ヶ領用水と旧二ヶ領用水、井田堀、木月堀の流路とされる道を歩いた。

現在の二ヶ領用水は、昭和30年代の区画整備事業で、幅3m程の水路が住宅地の中を真直ぐ流れるものに変えられたものである。

水路の両脇の道にフェンスと街灯が整備され、とても歩きやすいコースであった。他にも二ヶ領用水沿いにある神社やお寺を数ヵ所巡った。

 

 


<写真1>第三京浜道路速道横

今年度最後の散策こみちは、54名の参加があった。

 

 

<写真2>二ヶ領用水新流路

二ヶ領用水の新流路(川崎堀)である。昔は川幅8〜9mあった。

旧流路は昭和30年代の区画整備事業で暗渠となっている。


 

 

<写真3>関神社

天文年間にこの地を拓き入った武田信玄の家臣の原氏が祖先の地から勧請したと伝えられ、

この神に祈って開拓成功したといわれている。

芸能の神としても信仰されている。

 

 

<写真4>新流路の井田堀取入口と堰

井田堀は宮内地内で分水地内を流れ中原街道を横切り下小田中から井田へ向かって流れていた。

かつて、堰は蛇籠で作られ、井田堰から木月堰までの距離がおよそ318mであるといわれている。

現在の堰跡の下流域に水をキレイにするため、炭を入れていた。

当時川幅は7.2mあった。

 

 

<写真5>旧流路の井田堀取入れ口

本流

 

取入り口

 

井田堀

 

小杉・丸子へ流れる取水口。

西下橋から府中県道を通り小杉方面へ流れていた。

 

 

<写真6>小杉へ流れる取入れ口

         

 

 

 

 

 

 

 


     旧流路の跡

 

 

 

 

多摩川が洪水の度に土手が何回も破壊され造り直された。

ここは八回目の土手ということから付けられた。

 

 


<写真7>ハツ目土と水道水源地

この辺りに水道水源地があった。

これは河川敷に大正8年に開設された市内最初の水道の水源地であり、宮内貯水場の取り入れ口とされたことを示している。

 

 

<写真8>旧井田堀

旧井田堀は暗渠となっている。水の流れはほとんどない。

蛇行して流れているのがわかる。

 

 

<写真9>新流路の木月取入れ口

木月堀は分水地内を南東に流れ中原街道を横断して下小田中から木月に向かって流れていた。

木月堰から今井堰までの距離1,705mあった。

旧流路の木月取入れ口は、ここから100mほど先にあったが、現在跡はなく全く不明である。

 

 

<写真10>旧木月堀

旧木月堀は暗渠となり、歩くことはできない。

二ヶ領用水本流・井田掘・木月掘は、現在の富士通川崎工業の裏で合流している。


 

 

<写真11>金井観音

古く金井木之助という村人が名主の家から水帳を盗み処刑され、名主はその責任をとって上小田中へ移転した。

その事に村人たちが同情し観音を建てた。

 

 

<写真12>常楽寺(まんが寺)

春日神社と隣接し一体化している。

春日山医王院とも称する真言宗智山派の寺院で、奈良時代に聖武天皇の御願所として行基菩薩によって開基された。

1968年に行われた解体修理の時に、襖や壁一面に「まんが」の絵を描いた事からまんが寺と呼ばれるようになった。

 

 

<写真13>春日神社

常楽寺と隣接し一体化している。

1403年に鋳造された青銅製の鰐口が伝えられ、県の重要文化財に指定されている(市民ミュージアム所蔵)。

この春日神社と常楽寺の鎮守の森は県指定天然記念物となっている。

野鳥がたくさん来るとのこと。

 

 

<写真14>神地橋

中原街道が二ヶ領用水を跨ぐところにある。

木橋からコンクリートになったのは1935(昭和10)年頃で、夏場は泳いだり橋から飛び込んだりと大勢の人たちが遊んだといわれている。


 

 

<写真15>泉沢寺

吉良頼康が当時の稲毛領への進出を図る拠点としようとしたのだろうといわれている。

寺の周囲には「構堀(かまえぼり)」といわれる幅約1.8mほどの水堀があようで、現在は寺の北と東に「二領用水」として、その痕跡が残っている。

 

 

<写真16>小杉十字路

江戸末期、中原街道と府中街道が交わる小杉十字路を中心として村の産業が発展した。

この中原街道の中継地に二代将軍徳川秀忠が建てた小杉御殿がある。

小杉御殿の隣に小杉陣屋が設けられ、1597(慶長二)年から多摩川北側の六郷用水と南側の二ヶ領用水を開削した代官小泉次太夫が、

その現場事務所として利用した。

 

 

<写真17>今井堀取入れ口

今井堀取入れ口の痕跡はない。

『新編武蔵風土記稿』の今井堀の中に「神地橋前で取り入れ、今井神社の横を通って、

南武線踏み切りに至り、住吉橋下流から巽橋まで通じて落ちた」とあることから、ここに取り入れ口があったと推測される。

 

 

<写真18>今井神社

今井神社は二ヶ領用水沿いにある。

神社の横を今井堀が流れていた。当時、洗濯場などとして利用されていた。


 

 

<写真19>今井堀踏切(今井堀の流れ)

今井堀は今井神社から南武線高架下を通り、渋川へ落ちていた。

 

 

<写真20>渋川分岐点

第1回散策こみちのスタート地点。

渋川は二ヶ領用水の川崎掘を流れる水を矢上川へ落とすための流路である。