NPO法人多摩川エコミュージアム 散策こみち 33
みんなで歩こう=多摩川の橋を渡って
NPO法人多摩川エコミュージアムの歴史・文化遺産研究活動チーム「たま・エコPJの川崎/幸」の散策こみち案内です
10月13日(月・祝)13時〜16時
30℃近くの日照り、からっとした秋日和の 京急大師線東門前駅前に50余名が集った 13時東門前駅改札前でミーテング 今日の説明者は、地域史研究家:長島さん |
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川崎大師祈祷殿を右手に、その裏あたりが多摩川土手である。川筋も広まり両岸には 芦原が続く。干潮時に干潟も広がる。右手には新大師橋が見える。明治10年に「新渡し」 とも呼ばれ羽田とを結んだ渡し場が出来た。川崎大師の参詣客を乗せ、穴守稲荷への 「大師早舟」も就航した。2008年3月NPO法人多摩川エコミュージアム・川崎市が協働で 大師の渡し跡に碑を建てた。ステンレス製で写真・文字はエッチング法で刻んである |
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大師河原干潟館 2007年12月水防センターが建設され、その一部を 利用しての大師河原干潟館です。 |
多摩川に親しむためと、水防意識を高めるためです 1Fは水槽とパネル展示・2Fは市民活動の会議室で 土日と祭日だけ、市民ボランティアでオープンしている |
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旧日鉄建材工場跡地 前身は1920年(大正9年)に 操業を始めた富士製鋼だ。 川べりに資材搬入のトロッコ 軌道やクレーンなどがあった。 今は水門の門扉を外したドック だけが残され、往時の姿を伝え ている。 一部に高層住宅棟が建ち、大 半はヘリポートや水防センター 大師河原公園敷地、川崎大師 祈祷殿や駐車場などに変わった |
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新大師橋、名称の由来は川崎大師に因んで名付けられた。 |
両側二塔から左右に7本ずつ、計28本で橋桁を吊る斜張橋。 |
旧大師橋親柱保存小公園 新大師橋たもとに小公園が出来た。旧橋の親柱二基、 入り口に保存されていた。「今昔大師橋」 「多摩川下流域の橋」などの解説パネルもある。 旧大師橋は1939年完成。ゲルバー式、長さ552.18m |
大師の渡し碑と同じもの |
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新大師橋を渡る |
羽田の水門:船宿の屋形船、釣り船の係留ドックの水門 |
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羽田神社:明治40年自性院から独立羽田神社と改称した |
富士塚「羽田富士」頂上に浅間神社が祀られ7月1日山開き |
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自性院本覚寺 開山平治元(1159)年、羽田最古の寺院 |
弁財天の見事な彫刻 |
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赤レンガの旧堤防:多摩川下流改修工事に付随して、1928 (昭和3)年から防潮壁として築造された。鉄筋入り赤レンガ 高さ1m強のイギリス積。かっては弁天橋〜大師橋まで1.6km |
旧羽田街道:羽田七曲がりと呼ばれ曲折の多い道。中世から 開かれた海村、海の猟師が定住した、同時に水軍の兵士部落 羽田村と区別して羽田猟師町を称した。多摩川沿岸を港とした。 |
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満潮時の五十間鼻 |
干潮時の五十間鼻 |
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多摩川河口で最も眺望が良いと言われている所です、左奥が羽田空港、ジャンボ機着陸
右が東京湾。元日にはここから見る朝日が素晴らしいそうです、隠れたブームになっている。
大(赤)鳥居と広場 鈴木新田にあった穴守稲荷の大鳥居だった。この新田は、猟師町名主の鈴木弥五右衛門が開発した。終戦直後、海老取川以東の住民全てに、占領軍から48時間以内に立ち退き命令が出された。鈴木町、穴守町、江戸見町三町1,200世帯、3,000人余りが住み慣れた土地を奪われた。このとき、多くの参詣客を集めた穴守稲荷も、羽田五町目に移転した。だが、参道入り口にあった大鳥居だけが残った。いつしか、動かすと祟りがあるからだという風聞が流れた。その後1999(平成11)年、現地に移されて、「平和」の額がかけられている。 元日、鳥居から初日の出が昇る 数百人がご来光を見に訪れる。 |
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海老取川沿線の散歩路 |
天空橋:海老取川に架けられた人道橋 |
天空橋を渡って・・ 帰宅或いは、羽田方面にと 足を延ばす別れ場所です。 この辺で終わりとしますと締めくくりの挨拶・・・ 今日の案内役:長島さんに お礼申し上げて、地下の天空橋駅で帰宅組と羽田組 に分かれた。 楽しい多摩川河口の歴史と 素晴らしい景観を発見、楽しんだ一日でした。 |
羽田空港に夕日を見に行きました
三連休の終日の為か?第二ターミナルはお賑わいです・・・これは何でしょう
第一ターミナル行きのバス車中の夕日 |
夕日に間に合わなかった第一ターミナル |
夕日ではなくお月さんを見て終わりました。次回の楽しみにします。
参考文献:散策こみち33 リポート:眞田