溝口の旧平瀬川流路が、溝口の駐輪場になりました。ここに(溝口、総合高津中央病院裏)
昭和15年(1940)以前は平瀬川は流れていました、平瀬川氾濫による溝口の水害防止のため、
水路を上之橋から北に変えJR南武線を横切って、津田山台地の下をトンネルで潜り抜け二ヶ領
用水と合流し、久地地先の多摩川右岸に合流しています。よって、この平瀬川流路を旧平瀬跡と
呼んでいる



中原堰とは
この堰は、1914(大正4)年当時高津村を流れていた平瀬川に設けられた農業用施設です。
せき止められた水は、用水路で導かれて中原村(現川ア市中原区)の「上小田中、新城、
下小田中、神地の4ヶ村」の田畑を潤していました。稲作の衰退とともに長い間忘れられた
存在でしたが、2002年偶然見つけられました。

中原堰遺構の発見
2002年5月、市内の旧平瀬川について研究していた本研究会の会員が、その流れをたど
っていく内にその遺構を発見しました。江戸時代から使われていたものですが、1914(大正4)
年に中原村の人々の手によりコンクリート製に改修され堅固な物になりました。堰の側壁には
「堰の名称、建設委員などの六名の氏名、建設年代」等の文字が明瞭に刻まれていました。

自分達の水利権を守ろうとした中原の人々の、この堰の建設への思いが伝わってきます。
高津にある堰ですが、中原の人々により造られて、中原の土地に自分達の水を引くためのも
のなので、「中原堰」と名付けられたと思います。

旧平瀬川・中原堰研究会の「平瀬川中原堰遺構について」から抜粋させていただきました

このたび、町づくりの一環からこの場所に、駐輪場がつくられることになり。堰は勿論のこと、この
銘板も埋設されることになりました。その前にその全体像の把握の為、ここの発掘調査を行いま
した。この遺構を惜しみ、後世に伝える思いから、旧平瀬川・中原堰研究会等によっつて、新たに
「中原堰説明板」が立てられました。   2008年4月23日お披露目


お披露目式 
高津区長
中原堰研究会代表
高津観光協会会長 
経過報告・中原堰の紹介

記念撮影 奥行きが足りなく、全員入りませんでした、悪しからず