「多摩川の渡し場跡」の復元事業は、多摩川エコミュージアム推進事業の一つとして、2003年度から取り組まれてきた。2006年3月には、ひとまず調査報告書=『川崎市域での多摩川の渡し場跡』となって結実した。そこでは、多摩川全体で45箇所、川崎市域で20箇所の渡し場跡が判明した。この調査書に基づいて、2007年度から、NPO法人多摩川エコミュージアムと川崎市との協働事業として、「渡し場跡碑」の設置が進められることになり、2008年3月に第一期分の7基が完成し、現地に設置されました。

 2008年3月、多摩川の下記の7ヶ所の渡し跡に
渡し碑が設置された、渡し名です。全て川﨑側です。

  (1)羽田の渡し

  (2)大師の渡し

  (3)丸子の渡し

  (4)下野毛の渡し

  (5)宇奈根の渡し

  (6)堰の渡し

  (7)登戸の渡し

橋のない時代は船で多摩川を渡った


 高さ900mm、200mm角の高級ステンレス
(3mm厚さ)製角柱に、渡しの名まえ、碑面に
は、渡しの時期や目的や当時の写真などを
エッチング法で刻みこんだ。
 
 設置はNPO法人多摩川エコミュージアムと川﨑市です     次世代に伝える多摩川の記念碑です

今回 立てられた7基、碑面の標記内容です(写真が見当たらない渡し場もあり残念です)
 多摩川の中流から下流にかけて、かっては橋の数よりも渡し場の数の方がはるかに多かった。いまのように、川筋を隔てて行政界が設定され、対岸との交流が断絶されてはおらず、いまよりも想像できない頻度で川を越えた対岸との交流が行われていたのだ。それは、両岸を結ぶ渡し場の存在があった。この渡船を使って、人びとはいとも簡単に川を往来していた。渡し場は川筋の人びとの生活を支え、地域の交流を進め、文化の伝播を促してきた。祝歌の羽田節は大師地域でも歌い継がれ、お美射の神事は両岸に広がり、「嫁取り」や「婿取り」は対岸からも行われた。川は決して地域を分断せず、川を挟んで地域は一つの文化圏を共有していたのだ。
 私達は、いま一度渡し場の果たしてきた役割を見つめ直し、その意味を現代に蘇らせることができないか、そんな思いで歴史のかなたに置き去りにされようとしていた渡し場の姿を調査してきた。
 これを機会に、渡し場の復元も視野に入れた活動を展開して次世代に繫げていきます。    
                        たま・エコPJ編『川崎市域での多摩川の渡し場跡』あとがきから
7基の渡し場 『碑』の設置場所(全て多摩川右岸 川﨑側)

                                                         

        第一回 丸子の渡し 復活祭 2007/5/27                      リポート:眞田 強