作場渡し、荷渡し | |
堰と対岸の喜多見を結ぶ渡しに「堰の渡し」があった。明治40年(1907)頃、堰と喜多見の両村共同で始められた。「作場渡し」だが、それだけでなく「荷渡し」で、東京方面へ下肥を汲みに行くためにも使った。 また夏のなると、桃や梨を出荷する車でにぎわった。さらに、人びと生活圏に入る喜多見へ渡る交通路でもあり、毎月12日と24日の喜多見の慶元寺の市の時は大変賑わった。さらに世田谷道を通って、東京市中へ行く道としても使われた。 船は、馬船、伝馬船が1艘づつ。河原には茶店もあった。堰村の若い衆、4〜5人の船頭がいて、普通は1人でつとめ、昼夜交代、夜は泊り込み。村人の利用はタダだった。 渡し場の場所だが、各地図には「堰の渡し」という表記はない。舟のマークが付いているのが1件。明治42年(1909)測定・大正8年(1919)発行「東京西南部」五万分の一の地図で、場所は現在の東名高速道の多摩川橋真下あたりになる。 この渡しが廃止されたのは、各文献とも大正14年(1925)頃としてあるが、現地で聞き取りでは違っている。旧家の古老によると、「堰村としての運営は二子橋の出来た大正14年(1925)ごろで終わったかも知れないが、引き続き堰の石田・保谷・斉藤・久保田の旧家四家(この四家で土手の補強もやっていた)で渡船の許可を取り、船頭を石田さんという人に頼んで渡しを続けた」という。例えば、こういった内実を知らない土地の方でも「堰の渡しは太平洋戦争が始まったときのはもう無かった。しかし昭和になってからはあった。二子橋が出来てからは梨や桃など重たいものは二子を回って渡ったが、人は堰の渡しで渡った。場所は今の東名の下辺りだろう」という答え。つまり昭和になっても、堰の渡しはあったのである。その渡しはたった1人の船頭さんである石田さんが、その日の仕事を終えて72歳で亡くなったと同時に廃止された。 郷土史家の角田益信氏によると、石田さんの命日は昭和10年(1935)9月である。従って「堰の渡し」の廃止年は昭和10年(1935)9月である。 |
|
廃止年月日:昭和10年9月(1935)、船頭の死亡により廃止された。 | |