作場渡し | |
旧荏原郡宇奈根村(世田谷区宇奈根:本村)と旧橘樹郡宇奈根村(川崎市高津区宇奈根)とを結ぶ渡し。 多摩川の流路が変わって飛地が出来た時期は不明だが、慶安年間(1650年頃)か、戦国末期の天正年間(16世紀末)との推論がある。 宇奈根は世田谷が本村、川崎側が山谷と呼ばれた分村で、耕作地が川の両岸にあったので、作場渡しとして機能していた。 また、世田谷の喜多見、大蔵の人が溝の口方面へ買物に来るのに使われていた。 戦前は二子玉川より現砧浄水場まで玉川電車の支線があり、砧駅があった。 梅の季節になると、そこから宇奈根の渡しを渡って久地梅林まで来る観光客が多かった。 渡しの位置は、多摩川の流れや堤防工事などによってかなり動いたらしく、明治18年(1885)の地図ではかなり上流の竜王が淵と呼ばれる付近にあったが、昭和の始め頃の地図では下流の現在のリコーグランドと駒沢大学グランドのあいだ辺りになっている。 川崎側では、村から河原へは下の出口、前の出口が渡し場へ通じており、渡し場は洪水のたびに位置を変えたということで、この二つの出口の間は200メートル位あった。 もともとは南北両岸の宇奈根住民が利用するため、特に渡し賃は徴収しなかったが、廃止間際の頃には不特定の人びとの乗船が多くなり、幾許かの渡し賃を徴収していた。 本村側は、ムラの中の舟を漕ぐのが上手な年配者が引き継ぎ、とくに決まった船頭はいなかった。 山野側(川崎側)は、長く河原氏が渡し場付近に休憩所を設けて、渡し場の管理をしていた。 あるときは、氷川神社の神主を勤めたことがある人が神主を息子に譲り、船頭を勤めたこともあったとか。 宇奈根の渡しは、昭和22年(1947)、23年(1948)頃まであったようで、戦後の混乱期にはヤミ米を運ぶルートだったという話もあるが、昭和25年(1950)頃には廃止された。 | |
昭和25年(1950)頃に廃止された。 | |